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神楽ってなぁに?


●村まつり
豊後境いにそびえる祖母山(1757m)の頂きがほんのり初雪で化粧をはじめる頃、ふもとの神話と伝説につつまれた高千穂の農村では村人たちが、その年の豊かな実りを感謝し、あわせて来る年の無事を神に祈る「村まつり」を行います。
 村まつりは、鎮守の森の氏神様を定められた民家にまねき、一夜二日の夜神楽奉納が遠いむかしからの”シキタリ”です。
 村まつりの日取りは村々によって違います。最近ではほとんどの地域が11月下旬から翌年の2月上旬頃までの農閑期に行います。


●氏神様と村人が主役の夜神楽
 「高千穂の夜神楽は昭和37年5月、県の無形文化財の指定を受けました。
さらに46年には国の重要無形民俗文化財指定のための記録作成の対象になり、53年5月22日に国の「重要無形民俗文化財・高千穂の夜神楽」の指定を受けました。
 皮肉なようですが、高千穂の村人たちは、村まつりの神事として行う夜神楽まつりが、県や国の文化庁から文化財として指定を受けたことで、はじめて文化的な価値を知ったと言えましょう。指定を受けても受けなくても、村まつりの中身は変わらないのですが、現在行われている村まつりの神事の文化的価値と、存在を知ったとき、村人たちは遠い祖先から伝承された夜神楽の中身の深さを、今度はどう伝えるかを伝える立場で考え見つめています。

 「高千穂の夜神楽」と主題された無形民俗文化財を”かぐら”そのものが文化財だと勘違いしている人もいるようです。
 伝承の村まつりの中の”夜神楽”は、指定の一部です。中身です。夜神楽を中心にした村まつりの、全てのしきたりに無形民俗文化財としての価値があるのです。まつりのために、水を汲み、注連を作り、神を迎え、神を送る村人が氏神様と共に文化財の主役なのです。無形民俗文化財の主役が村人でなかったら伝承高千穂の夜神楽の存在もなかったことでしょう。
 徳川幕府の農民政策に”百姓は生かさず殺さず”があります。高千穂領の農民政策は”高千穂を中心とした農民一揆が県下で最も多い”ことで、その厳しさが解ると思います。
そうした農村環境の中で、娯楽性の強い「村まつり・夜神楽」が、どう生き抜き伝承されたか、興味ある問題です。
 むかしの村まつりは祭式をふくめて夜神楽奉納が終わるまでに三日二夜かかったともいいます。その初日、神々が夜神楽に舞い込む日を”宵殿”とも呼びました。いまでは夜神楽そのものを”よど”と言う人もいます。また”神遊び”と呼ぶ別称もあったようです。
 ”百姓は生かさず殺さず”を方針とする殿様の農民政策に反対もせず行われる農民神事は、即ち”殿様まつり”でもあったのです。農民自らが神様になって行う村まつりに殿様も口をはさむ余裕はなかったと考えることが自然でしょう。
 ともあれ、夜神楽の主役がその地域の農民であることは村まつりの初めから終わりまでの全てを見て頂ければ誰にもうなずいて頂けると思います。夜神楽の主役は神職でもありません。また、神楽を舞うほしゃどん(舞人)でもありません。氏神様と地域農民の合体まつりです。そこに高千穂の夜神楽の特徴があると思います。

●神様の数が日本一
 村まつりは、大きな集落で七〜八十世帯、少ないところで三〜四十世帯、むかし「部」と呼ばれた単位の村々で行われます。
 ”夜神楽”は、定められた民家に氏神様を招いて行う”村まつり”の別称です。日本国的な視野からみれば、その村々は最高位の天照大神をはじめ、日本の神話や伝説の中に登場する神々が総出演します。日本国中の何処のお祭りをながめても、高千穂ほどに神々が大勢集まる祭りはなさそうです。


●日神楽
村まつりは行うが、夜神楽をしない村もあります。夜神楽には大変な費用が掛かります。それでその費用を切り詰めるため、夜神楽に代わって「日神楽」が行われます。
鎮守の杜から氏神様を神楽宿に迎え、神楽を奉納することは変わりないのですが、行事全体を縮め簡略化して、舞い納める神楽も”宵殿七番”と呼ばれる一番から七番までで済まします。最近では、その七番日神楽の形も崩れて、”式三番”と呼ばれる「神降ろし」「鎮守」「杉登り」の奉納で村まつりを終わるところもあります。
 いずれも夜に入る前の明るいうちに神様を神社に送り届け、夜に入って村の主だった人々と神職でささやかな直会(なおらい)を行い、その年の村まつりを終わる訳です。

 

高千穂郷八十八社 http://www.takachiho88.net/